2000年後の考古学者へ

読者は要りません。4000年代を生きるあなたに向けて2017年を記します。

2017年11月24日

世間(それは往々にしてブラウン管の向こう側)は力士の暴力問題で持ちきりだ。モンゴル人力士が同郷の後輩力士を酒席で殴ったのだ。殴った力士が横綱でなければ、これほど大きな騒ぎにならなかったのかもしれない。凡人の私にはこの事件をなぜここまで大きくテレビ局が報じるのか理解できない。あれだけの大男なら酒席で暴れることくらいありそうなものだ。テレビ番組のコメンテーターは横綱の品格を問題に挙げ、力士を批判している。ところで、私は相撲に限らず日本の武道と言われるスポーツが今一つ好きになれない。スポーツの醍醐味は試合に勝ったときの気持ちの高揚だ。これは普段の生活では味わえるものでない。スポーツをしているときにだけ、味わえるある種の薬物的な禁断症状だ。武道はこれを抑制する。それを表現しないことが、相手に対する敬意になる。これではスポーツをする意味がないではないか。とここまで書いて気づいた。武道はスポーツではない。オリンピック種目に採用されている武道もあるが、厳密にはスポーツのカテゴリーにいれるべきでないのだ。スポーツの禁断症状に否定的な武道は伝統文化(歌舞伎や能)と性質を同じくするものなのだ。なるほど、つまり現在、世間は日本文化のあり方について懸命に議論しているのだ。なんと高尚な行いなのか。頭の悪そうなタレントが昼間に熱く語っているあの行いは実は政治を語るより尊い行いなのだ。現在、何百年と続く自国の文化の所在を明らかにしようと日本人はしているのか!! この事実に私はもう少し早く気づくべきであった。よし、明日から私も国の悪政や外交問題国際紛争に目を背け、この素晴らしく高尚な議論に参加しよう。そしてその参加者と一緒に日本の終わりの始まりを無視し続けようではないか。

このブログの主旨

ちょうど2000年前、西暦17年11月24日、人は何をしていたのだろうか?何を考えていたのだろう?歴史学がどれだけ進歩したとしても、この質問に答えることはできないだろう。その時代に活躍した偉人のことなら歴史学でも多少対応可能だ。その証拠に中学校の歴史の教科書にはその時代の記述がある。しかし私が知りたいのは莫大な時間を短く要約したダイジェストではない。私が知りたいのは、その時代を普通に過ごした、ちょうど私のような凡人が何を思い生きていたのかということだ。しかし、残念ながらそれは風前の灯だ。薄い紙に書いた凡人の文字など2000年も耐久しない。しかし、時は2017年だ。恐らく凡人が書いた文字でも2000年は耐久するほどテクノロジーは発展した。そこで私は2000年後の人間が私のような叶わない夢を抱かずに済むよう、今の時代の凡人の思考を残すことにする。これを読んで2000年前を思い更け、歴史のロマンを感じてほしい。